2022年1月16日日曜日

水平スペーシングの考え方の全て 第五回

 前回までは、水平スペーシングで考慮される様々なスタイルをまとめました。第五回では、今までの内容を用いて実際の浄書例を分析したいと思います。

ヘンレの彫版浄書

 ヘンレでは2000年頃に至るまで、彫版浄書と呼ばれる手法で楽譜が浄書されていました。以下の動画では彫版浄書の様子が記録されています。ヨーロッパでは浄書ソフトが普及する以前はこのような方法で楽譜が作られていました。
 この譜例は、2003年に出版されたヘンレ原典版のシューマン, Novelletten op.21から抜粋したものです。2003年に出版されたものですが、彫版による浄書でコンピュータ浄書ではありません。人間の手で浄書されているにもかかわらず、図示した部分において全ての音符間隔を「素の音符間隔」と「加算されたスペース*が含まれる音符間隔」に分けることができます。それだけそれらのスペースを区別し正確な間隔で版刻されていたということです。
 「加算されたスペース」が広く取られている一つの要因として、赤枠で示した「スペーシングブロック**」が考えられます。第123小節の赤枠部では、2点ト音の真下のスペースに1点ト音の♮を入れることが可能ですが、「スペーシングブロック」によってスペースが広げられています。また第125小節の赤枠部も同様です。ここで面白いのは、符鉤単体では「加算されたスペース」としては考慮されていないのにかかわらず、「スペーシングブロック」には考慮されている点です。このように音符間隔の精度の高い浄書からは、かなり細かい流儀を読み取ることが可能です。

 この譜例もヘンレ原典版のシューマン, Novelletten op.21から抜粋しました。全て十六分音符の間隔で構成されていますが、同じ十六分音符でも数種類の間隔に区別して浄書されています。「素の音符間隔」と「加算されたスペース」の違いだけでなく、「上昇音形>下降音形*」のように「上昇音形」と「下降音形」で音符間隔を分けています。更に「下降音形」の音符間隔は2種類に分けられます。青色で図示した最も狭い音符間隔と、水色で示した青色よりも若干広めの音符間隔です。水色の間隔が若干広くなっているのは、第228小節の一つ目は加線によって広くなっており、二つめの間隔の要因は正直よく分かりませんが、おそらく一つ目の間隔に合わせた結果でしょう。第232小節の水色も加線によるものです。第229小節の水色の間隔は、高音部譜表の下声部の十六分休符によって、十六分休符とその後ろの十六分音符の関係が下降音形ではなくなることで、青色の下降音形の音符間隔よりも広く音符間隔が取られています。単に下降音形の音符間隔がキャンセルされているのであれば、第229小節の水色区間は、緑色の音符間隔と同じ間隔として処理されますが、十六分休符の水平位置を左側にずらすことで、緑色の上昇音形の間隔よりも狭く処理することに成功しています。このように、下降音形として上昇音形よりも狭く処理することと、下声部の音符間隔を両立させるためのバランスを取った、極めて精妙な技と言えましょう。これをコンピュータソフトウェアではなく、人間の手によって版刻されていたのは、まさに人間コンピュータの所業です。
*「水平スペーシングの考え方の全て 第四回」の「上昇音形と下降音形」

日本のハンコ浄書「春秋リスト集6」

 日本では浄書ソフトが普及する以前は「ハンコ浄書」と呼ばれる手法で楽譜の浄書が行われていました。ハンコ浄書がどういったものかを知るには、日本楽譜出版社の記事「ハンコ浄書の世界」を見ると良いでしょう。1980年代までの日本の出版譜は、このような職人の手作業によって作られていました。
 この譜例は1968年に出版された春秋社の「リスト集6」から抜粋しました。全て十六分音符の間隔ですが、長短の2つの間隔に分けられて浄書されています。これは符尾の方向の違いによる補正の結果*です。この補正によって、2つ音符間の関係で、符尾が符頭の左側対右側であれば「腹合わせのスペーシング」として音符間隔を狭め、符尾が符頭の右側対左側であれば「背合わせのスペーシング」として音符間隔を広げているのです。
*「水平スペーシングの考え方の全て 第四回」の「符尾の方向による視覚的補正」

 しかしこの譜例における音符間隔はこれが唯一解ではありません。流儀の違いによって異なるスペーシングにすることも十分考えられます。ここで考えられる水平スペーシングのパターンを4つ、ここで挙げておきます。
 まずは何もしない「標準的なスペーシング」が考えられます。加算されたスペースを除けば、音符間隔は全て符頭を基準に揃えられています。この譜例では特に欠点のないスペーシングなので、下手に小手先の調整をするよりも良いかもしれません。
次の「符尾合わせの間隔補正」は「リスト集6」と同じ考えの補正です。符尾が背合わせになる間隔を広げている分、2度間の上昇音形の間隔が狭くなっているために、同拍に見えてしまうかもしれません。個人的な意見としては、これはベストな補正ではないと思います。三番目の「上昇音形・下降音形の間隔補正」では、下降音形で音符間隔を狭くしている部分は、音の距離が離れているので同拍に見えることはないでしょう。また2度間の上昇音形では、上昇音形の間隔が広く取られるので、こちらも同拍には見えないはずです。したがって上声部の音が下声部の間に入っているという構造は十分に伝えられるでしょう。最後の「組み合わせ型の間隔補正」は、「上昇音形・下降音形の間隔補正」に加え、「符尾合わせの間隔補正」での「背合わせのスペーシング」補正を行ったものです。音符を一つ一つ追って見た時には、恐らく最も見やすいのではないかと私は考えていますが、一方で、上声部や下声部毎の音符間隔の均等さは最も失われており、楽譜の全体を見た時には上の3つの譜例の方が均等な音符間隔に見えると思います。
 このように音符間隔の補正には一長一短があり、どの補正をいつ行うかは浄書家の主観的判断で異なってきます。私ならこの譜例では「上昇音形・下降音形の間隔補正」を善しとするでしょう。しかしながらこういった流儀の違いに注目して楽譜を観察していけば、それぞれの浄書家の考え方を推し量ることができ、新たな発見に結びつけられます。浄書の流儀を良いか悪いかの主観的判断で一方を切り捨てるのではなく、良いと思ったものは採用し、良くないと思ったものは価値判断を保留し覚えておけば、浄書の可能性を広げることができます。

日本のハンコ浄書「春秋フォーレ全集2」

 この譜例は1986年に出版された春秋社の「フォーレ全集2」から抜粋しました。上図左では、上譜表の付点八分音符の間隔は下譜表の八分音符による分割を免れており、緑色の音符間隔が十六分音符の間隔よりも狭くなっています*。その結果、下声部の八分音符の間隔は等しくなっています。一方で上図右の譜例では、上声部の付点八分音符の間隔が下声部の八分音符によって分割され、青色で示したように下声部の八分音符から上声部の十六分音符までの間隔も、十六分音符と同じ間隔になっています。このことから、別譜表間においてはスペース短縮が行われ、同じ譜表の中で近い距離の音符であれば別声部間でもスペースの短縮を行わないというように、場面毎に異なった音符間隔の処理がされています。
*水平スペーシングの考え方の全て 第四回」の「異なる声部・譜表間のスペース短縮

まとめ

 このようにして出版譜の音符間隔を分析すれば、その出版譜の浄書精度の高さや細かい音符間隔の差異の意図を知ることが出来ます。もちろん全ての出版譜の全ての音符間隔が浄書家の意図通りに浄書できているわけではなく、浄書精度の低い出版譜もあります。ことさら現代では、浄書ソフトの普及によって、ユーザーが何も考えていなくても音符間隔は最初から出力されていますから、浄書家が意図していない音符間隔もよく見られます。しかしながら、これまでに紹介したルールや流儀*を踏まえて楽譜をよく観察していけば、浄書家の意図がどれだけ楽譜に浸透しているかが伝わってくるでしょう。今回の記事をきっかけにして、楽譜の見る解像度が上がるきっかけになれば、幸いです。
*ルールというものは正しいかどうかという物差しで測りがちであるが、浄書のルールというものは浄書家毎に微妙に異なっており、ルールというよりはスタイルと言うべきものである。日本語では「流儀」と表現される。特に第四回で紹介したルールはそれぞれが両立しないものもあり、浄書家がどのルールをどの場面で用いるかはまさに人それぞれというものでしかない。


 最後に私の浄書例を紹介したいと思います。
 私はこれらの音符間隔を全て区別して浄書しています。さて、一体いつになったら、このように音符間隔をそれぞれ区別して容易に調整できる浄書ソフトが登場するのでしょうか。その浄書ソフトが登場するまで、職人秘伝の浄書の流儀を楽譜の分析から解き明かし、知識体系として確立されていなければなりません。楽譜浄書を研究する担い手が必要です。


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