2022年6月24日金曜日

90年代に使われた、消え去った浄書ソフトたち

 2022年現在、出版譜に使われる楽譜浄書ソフトは主にFinaleかSibeliusのどちらかと言えます。しかし1990年代の出版譜ではFinaleやSibelius以外に、「SCORE」や「TOPPAN new scan-note」と呼ばれる浄書ソフトも使用されていました。この2つの浄書ソフトは2000年代に入ると次第に使われなくなり、Finaleが出版譜に使われる浄書ソフトとしての地位を圧倒的なものになってしまいました。しかしながらこれら2つの浄書ソフトで作られた譜面は、浄書品質ではFinaleに決して劣ることはなく、むしろ優れているとさえ言えます。今回は「SCORE」と「TOPPAN new scan-note」が使用された出版譜の譜例を紹介し、浄書ソフト黎明期に想いを馳せたいと思います。

SCORE

 SCOREは90年代に広く使われた浄書ソフトの一つで、Leland Smith氏により開発が行われ1987年に最初にリリースされました。Windows以前のMS-DOS向けに作られたこともあって、2000年代以降ではFinaleの普及によってシェアが奪われていきました。Windowsへの対応は2009年のWinScoreのβテストにより試みられていましたが、メモリーリークや多数のバグに悩まされ、2012年の公式リリースされたものの2013年の最終リリースに至るまで、実際のところはβ版の域を出ないものでした。そして開発者であるLeland Smith氏は最終リリースの6週間後に亡くなってしまい、SCOREは現在では全く使われない浄書ソフトとなりました。
 SCOREは現在では使われないソフトですが、幸いにも英語版Wikipediaに記事が存在します。興味があれば一度見てみてください。

 SCOREによる浄書譜面の一例として、ショット社から出版されているリゲティの『ピアノのための練習曲集 第1巻』より下図の譜例を紹介します。
 SCOREの譜面の最大の特徴は、スラー・タイの形状です。コンピュータ浄書のスラーの中で、おそらく最もハンコ浄書のスラーをよく再現していると思います。スラーの中央付近がほぼ直線状であり、まるで底辺の除いた台形に近い形状が特徴です。コンピュータ浄書ソフトのほとんどは、3次ベジェ曲線でスラーが描写されますが、直線部がなくスラーの中央が必ず盛り上がる形状のため、長いスラーではスペースを無駄に占拠してしまいます。中央部が直線に近いスラーの方が、長いスラーでは収まりが良いのです。またスラーの両端から中央への線の太さの変化具合も、他の浄書ソフトよりもハンコ浄書の具合に近いように思えます。ハンコ浄書をコンピュータ上に再現するという観点では、スラーにおいてはSCOREが最も優れた唯一無二のソフトです。またSCOREによる浄書譜面の多くは、90年代~00年代のFinaleによる譜面よりも正確な音符スペーシングを備えています。これらの特徴から、楽譜浄書の伝統的なエッセンスを損なわずに、コンピュータ浄書の正確で隙のない浄書を比較的高次元で実現できているのです。

TOPPAN new scan-note

 残念ながら「TOPPAN new scan-note」はSCOREとは異なり、Wikipediaに記事が存在せず、またその他の文献もほとんど見つけることができない、まさに忘れ去られた浄書ソフトだと言えます。しかしながら90年代の出版譜は2022年においても一般に販売・流通していることから、「TOPPAN new scan-note」が使われたと考えられる楽譜は十分に入手が可能です。そして、日本における90年代の出版譜の中で、使われているのがFinaleでもSCOREでもない譜面群は明確に存在します。これらの譜面群には共通の特徴が認められるので、おそらく「TOPPAN new scan-note」が使われていると推測することができます。

神野浄書技研による浄書譜

 浄書家である星出氏のWebページには、神野浄書技研がTOPPAN new scan-noteを使用していたという記述があります。神野浄書技研の譜例は以前に、フランク集を浄書雑感で紹介しましたが、今回はまず春秋社『園田高弘校訂版 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第17番』を用いてTOPPAN new scan-noteの特徴を見てみましょう。
 TOPPAN new scan-noteは音符間隔が比較的正確な印象があります。上図は下段の八分音符の間隔は全て根拠があり、音符間隔が伸びている部分は間に別の音符がある区間になっています。春秋社『園田高弘校訂版 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ』シリーズは、神野浄書技研による浄書になっており、フランク集の浄書のように過密で超絶技巧な派手さはないものの、適度な密度の中で確かな技巧が散見されるバランスの整った浄書になっています。

TOPPAN new scan-noteだと思われる出版譜群

 神野浄書技研はTOPPAN new scan-noteが使われていることが文献で示されている、今回探しうる唯一の例ですが、日本の90年代出版譜の中には、FinaleにもSCOREにも該当しない、もちろんSibeliusでもない浄書ソフトが用いられた出版譜が一定数存在します。その出版譜の記譜フォントは以下の図のものです。
 これは木下牧子作曲の抒情小曲集『月の角笛』(カワイ出版)から抜粋したものです。この記譜フォントの出版譜は90年代においてそれなりに見つけることができます。
 私はこの記譜フォントが使われた出版譜は、TOPPAN new scan-noteによる浄書だと考えています。記譜フォントは神野浄書技研のものとは異なりますが、スラーの形状に類似性を感じます。これらの浄書譜では、3次ベジェ曲線に似た通常のスラーのほかに、両端部の曲がり具合の強い「かまぼこ型」のスラーが見られます。神野浄書譜でも『月の角笛』でも「かまぼこ型」のスラーの端部分の曲線がなぜかデコボコしているという共通点が見られることから、共通のソフトウェアが使われていることが伺えます。

 1990年代は家庭用コンピュータが普及した時代でした。それまでは現在コンピュータで行われるクリエイティブな作業の多くは、人間の手作業によって行われていたのです。それゆえに、1980~1990年代はアナログな職人技術が極まった時代とも言えるでしょう。日本のアニメーションはその好例です。1990年頃のアニメ作品はセル画最後の時代故の凄まじい作画を伴ったものが複数ありました。「王立宇宙軍 オネアミスの翼(1987)」や「攻殻機動隊(1995)」や「ASTRO BOY 鉄腕アトム(2003)」などは今でも時より作画を語られるものでしょう。
 しかしながら、多くの人の記憶に残り、今でも親しまれているアニメとは異なり、楽譜浄書はその存在自体があまり知られておらず、コンピュータが使われていない時代の出版譜が手作業の境地で制作されていることにすら気づかれにくいのです。すなわち、楽譜浄書に対する世間の関心は無に等しく、そのために楽譜浄書の技術体系が継承されにくくなっています。コンピュータが普及した90年代こそ、楽譜浄書ソフトを作り上げる過程でコンピュータ上で浄書を再現するために、技術体系の継承の努力が最もなされた時代だと考えられますが、30年前のプログラムでは完全に継承できたわけでもなく、それから30年余りが過ぎFinaleが当たり前となった2020年代では、ハンコ浄書や彫版浄書での楽譜浄書のエッセンスは失われてしまっているのではないでしょうか。1980年代に30代の若者は2020年代では70代であり、当時のハンコ浄書職人の全ては引退し、その多くはこの世を去ってしまっていることでしょう。90年代に使われた「TOPPAN new scan-note」も文献がほとんど残されておらず、当事者以外にはその存在を知る機会はありません。本当にこのままで良いのでしょうか。
 1990年代はコンピュータ浄書の黎明期であり、また浄書ソフトのユーザーもハンコ浄書・彫版浄書の再現に苦心した時期でもありました。その努力が色濃く窺える作品はいくつか見ることができ、今回のリゲティ譜や神野浄書技研はその代表例です。これらの譜面を掘り起こし、90年代のコンピュータ浄書におけるハンコ浄書・彫版浄書の再現しようとした努力に光を当てることで、より精緻な楽譜浄書を実現させるためのノウハウや技術体系を解明させることが可能だと思います。90年代浄書ソフト黎明期の、浄書ソフトと生み出された浄書譜の研究こそが、現在のコンピュータ浄書時代における楽譜浄書の理想形を追求するための大いなるヒントとなり得るでしょう。

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